昭和45年12月01日 月例祭
これはね、神様が与えてくださるもの。しかも、その喜びの妙というのは、暑いときにも暑さを感じず、寒いときにも寒さを感じんというほどしのもの。しかも、どこから湧いてくるか分からないというほどしのもの。それが私は、妙賀の、まぁ正体だと思います。ねぇ。「背な伝う 汗の暑さや 達磨行」です。御結界の、椛目の時代やら暑かったですね。もうホントに暑かった。もうそれこそ、座布団がもうじゅくじゅくになるぐらいですたい、お昼に立つときには。
もうすわ、座っただけじゃない。朝の御祈念の座ん出ますと、もう御祈念終わったときはしっかりなっている。もうそのまま、あの時分は動きませんでしたからね、12時まで。もう、背中を伝う汗は、もうだらだらです。暑いような汗を感じながら、前からは有り難涙がこぼれてくる。私は、妙賀というのは、そんなもんだと思うんですね。汗を感じない。有り難い。ね。
先ほど秋永先生が、今日は前講を勤めておられました。お話を頂かして頂いた、そのお話の内容ということが、先生の心の中に思うておられることが、素晴らしかったのじゃないでしょうか。ここに立たれたら、ここに立たれたら何か感動したんです。なんか伝わってくるものが感じたうん。そしてまぁお話を頂き終わって、どう言う事であろうかと思うたら、結局、奥さんを、対する思いやりとでも申しましょうか。
そういうその思いやりの心という心。暖かい心そういうものが、先生の信心から生まれてくる。そういうものがね、私をしてあそこで感動さしたんだなぁと思うた。ねぇ。ですからお互いがホントにそのう、思いやりの深い私共にならして頂くという言う事。ね。それはそこに同情すべき、ね、気の毒な人と言った様な色々な、あれがありますけれども、そうではない、それ以前の私ならばです。
ここでピシッと一言言うてあげるか、言うて聞かせると、ねぇ向こうも分かるだろう、こっちもすきっとするけれどもと言った様な事があるときにね、所謂やれやれいやいやとそれを抑える心。そしてその人の事を思う心。是は私は皆さんの心の高度さをそこに現しておるものだと思うんですね。今日私が皆さんに何を聞いて頂こうかと思うて、今ここでご神前に出らして頂きましたらね、私が卑しん棒だから神様が卑しん棒。
食べ物ばっかりで教えて下さるんですけれどもねぇいつも。今日もね天婦羅のね、海老の天婦羅をね、もうそりゃ美味しかろうと思うような天つゆでね、こう大根おろしが入ってるそれにこう付けながら、それを頂こうとする所を頂いた。ははぁ今日は天婦羅の講習ばいなと思うて、天婦羅はこんなにして頂くもんだと。とまぁ皆さんお思いになられたかも知れないけど、それを頂いてまた私は感動した。
皆さん考えてみて下さい。今日皆さんに聞いて頂きたいと言う事は、ね、所謂海老の天婦羅を、しかもホントに上等に作ってある、天つゆを中におろしが入って、その天つゆおろしを添えて、天婦羅を頂こうかと言う様な、そういう心をね、皆さんに聞いて頂こうと思うのです。おかげを頂きまして、今年も愈々今年一月をもって、また新しい年を迎えることになります。12ヶ月いわば11ヶ月ですねぇ。
過去11ヶ月の事を今こう振り返ってみまして、もうホントにおかげを受けておる事の、広大無辺なおかげの中に、今日を迎えさせて頂いたと、取分けこの11月という月は、所謂ここの信心の焦点でありました、一心の真を捧げての願いになろうという、ね。只願いというても、一心の真を捧げると言う事。そして願わして頂こうじゃないかと言う様にお知らせを頂いて、皆さんと一緒にその信心の稽古に入らして頂いた。
期せずしてここの3番目の息子でございます幹三郎が、あのような事で病院に入院することになりました。もうホントに只々奇跡と言う様な外にはないほどしのおかげを頂きまして、まぁ日に日に薄紙をはくようにというのが普通でしょうけれども、もう日に日にゴロゴロおかげを受けておるという方がいや本当でしょう。もう昨日は丁度家内がこちらへ出てまいっておる間に、お見舞い客が次々とこうありましたらしい。ね。
そうしてお見舞いに行って下さった方達が帰って来てからです、もうあまりにもおかげを受けておられるのでびっくり致しましたと言うて下さった。今日も1時の御祈念に、家内がお礼に出てまいりましてから、今日はおかげを頂いて、ここに包帯をしておったらしい。その包帯をとれ取る事が出来たと、たいへん楽になったと言うて、本人もおらした。まそのようにおかげを受けております。
99パーセントはもうだめだと言われた病人が、ねぇ、わずかまだ一月も経たないうちに、しかも、なるほどあの大手術を受けて、幾日かは、もう本人が言っておりますように、死ぬごたったというような苦しい所も通りましたけれども、おかげを頂いてとにかく、がんばります親先生と、まぁがんばり貫かせて頂きました。後はもう実に楽におかげを頂きつい4、5日前には、この管のようなものがそこから。
こう流動食をこうやって頂いておったそうなんですが、それも取れて、今ではもうぼちぼち、食べ物も、軟らかいものなら頂かれるほどしにおかげを頂いた。昨日の家内がまいってまいりましたときには、もうとにかく楽ですから、多めに来て下さりゃ応対もできるし、まぁ自分の気分よう書物なんかも読むことができよった。だから昨日、御神米にお書き下げを頂きましたのが、ね。心身ともに養う。
「身気ともに養う」と、いうことを頂きました。しんというのは、身体の身(からだ)にですね、気というのは、気息の気ですね。いわゆる心です。こういう有り難いチャンスを頂いておるんだ。今こうやって体を養うておるんだけれども、その体を養うだけではなくて、自分の心を養う絶好のチャンスだぞと。お母さんと二人で漫画ばっかり読んどらずに、一つちったぁ難しい勉強もさして頂き、と言う様な意味の事のご理解を頂いて、ほどしにおかげを頂いた。
昨日学校の先生も、子供たちを4、5人連れてお見舞いに行って下さった。もうこんなに、まぁおかげ頂いとるとは仰いませんけども、こげんようなっとるごたるなら、是から4、5人ずつ、学生を見舞いにやって、勉強の方もいっちょしたらえぇねと言って下さったと言う事でございます。そのような中にね、あの入院前後、そして手術を前後にしたときに、もうホントに皆さんが毎日、白熱的な御祈念を送って下さり、それこそ後祈念のおかげ、賜物があぁいうおかげになったんだと、ね。
それをまた取り次がして頂く私の、言うならば信心とあいまって、あのような奇跡を、おかげを奇跡的なおかげになったと、いうより他にありません。ね。ホントにお互いが一心の真を捧げて、願わなければおられない事に直面した。そして願った。願わせて頂いたら、ね、成程たまがるようなおかげがここに現れたその事も有り難いけれども、その事を通してお互いが一心の真を、言わば赤の他人のだれかれの事でも、この様な気持ちになって祈れれる自分が有り難い。ね。
今度打ち込んで下さった方、あのうは皆んなそれを言う。ね。そこの田中さんじゃないですけれど、先日の合楽会のときに発表しておられました。丁度取り上げ最中にもう取り上げ一日ですんだ。そこであぁばってん近所に、遅れとられる所に毎日お手伝いにやらして頂いた。その修行も幹三郎ちゃんの病気平癒の事だけを願っていった、とこう言われる。お炊事をさして頂いとりましても、ね。
何をさして頂いておっても、ね、この修行が幹三郎ちゃんの病気の平癒に繋がるならば、いとうはない。それこそ取り上げといやぁたいへんきついことでしょうけれども、そこの中に敢然として修行の中に飛び込んだ。しかもそれは幹三郎ちゃんの病気平癒のためにという焦点がはっきりしておる。先生もう毎日がどこから湧い、それこそお茶碗を洗いよってもです、ね。
どこから湧いてくるか分からんけれど感激、感動が湧いて参りましたという発表しておられました。皆がこの体験を頂いとるはずです。ねぇ。私はだから信心というのは、どうぞ金を儲けさして下さい、体をよくなして下さい。言わばこのことの病信心は、ね。祈念祈祷で助かるのでもなからなければ、ね。又は、ね、病気治しや災難よけの神様ではない。心なおしの神じゃと仰るがです、ね。
自分が他人のだれかれの事が祈れれるような程しに、心が改められておると言う事が有り難い。そしたらです願っても頂けない、そのどこから湧いてくるか分からない感動が、次から次と押し上げて来る様に頂ける。茶碗を洗いよっても何仕事さして頂きよっても、これがこの事にと言う事に思わして頂いたら、喜びが湧いてきたとこう言うておられます。私は信心とはね、そこのところが分かって行く事だと思うんです。
世のお役に立たして頂きたいと言う事でもそうです。自分の周囲周辺の事のね、難儀な問題を眺めては、その事が切実に、しかも一心の真を捧げての願いにならして頂けれる所から。願っておる自分は、どうぞ喜びの心とはいうて、いる筈はないけれど。神様がいわゆる妙賀の心を送ってくださる。その妙賀の心が富喜繁盛に繋がるのです。あらぁもうホントにそれは、もうそれこそ信心のおかげというのは霊妙不可思議な事。
いわゆる奇跡的なそういうおかげを受けると言う事ではなくて、それに繋がる関連して、の祈りを、例えば幹三郎の事一つでん祈られる。祈られるその人がです、ね、毎日毎日これは熊谷さんですけれどの言われよる。ね。毎日日に3回お参りになる。そして毎日お参りをさして頂いて、今日は幹三郎ちゃんのごつ、体の状態はどうでしたでしょうかということを初めはよう聞けなかった。
けれどもまぁ聞きたかったから恐る恐る聞きますと、毎日毎日頂く、聞かして頂くたんびにです、ね、もうびっくりするように、ご平癒の状態を聞かして頂いて、それが楽しゅうなってきた。と言う様にです、ね、おかげを受けている事です。11月の11日の朝の御理解が、今度のおかげの泉にのっとります。これは珍しい御理解で、教典、教示、教、教りく。教典からではない、御理解なんです。
その一番最後の締めくくりの所にね、今日は御礼の為に精進するというほどしの信心が、いかに信心を高度なものにしていくそのコツであるかという、いううコツであるというか、心得であると言う事をです、皆さんに聞いて頂いたと。どうぞ一つお礼のための精進愈々本当に、御礼のために精進をさせて貰わねばならんほどしの、おかげを頂きたいと思うですねと言うてあります。ね。
今月はねだからこん半ばに、恐らくこの今日の御理解が、今月の焦点になるでしょうと、12月のと言うておったが矢張りその通りでした。だからここの12月は、御礼のための精進、と言う所にお互い焦点を置く。一年中の事を振り返ってみると、あれもおかげであった是もおかげであったと。そおかげの焦点になるものは沢山ある。ね。所がです私共の心がそれを有り難いとキャッチしきらないその心の方に問題がある。
はぁ手が動きよるなぁほんなこつ有り難かったじゃ、感動なっと湧いてこない。目が見えておるなぁとだけではない例えば、11ヶ月間の事ずうっと振り返らしてみらして頂きますと、様々な広大なおかげを頂いた。今日私お祭りを頂かしてもらわして貰いながら、あのうこの前から笙・篳篥は、楽の中に入ってます。この前よりも矢張り今度のほうが聴いとって安心できるような、でしたネェ。ま、
取分け私はあのう琴、篳篥がずうっと吹奏されます切れ間切れ間を、あのう笙だけは切れ間なしにずうっとこう吹奏吹奏する。あの切れ間に鳴っておるのが、あれが笙なんです。あの笙の声を聴きそのきょう、声っていうかねあの音色を聴かせて頂いとりましたらね、もう心がなんか知らん心が有り難くならして頂いた。ね。お互いがですね、何を見せて頂いても、秋永先生がここに立たれたら、何か知らん感動した。
あの笙の音色を聴かして頂いたら、心が何か知らん喜びいっぱいになった。どう言う事であろうか。ね。大概笙の声聴きよったっちゃ有り難くはならん。秋永先生のお話がよかったけん有り難かったばってん、もう立たっしゃったとたんに有り難くはならなかった。そこに、私と皆さんの心の違いがあるんじゃないかと思う。ね、そのキャッチ度合いが違う。ね。どういう風に違うか。どこが違うか。ね。
今月はいよいよ、12月のいよいよ締めくくりの月。これはもう毎年のことでございますけれども、うちは春秋の大祭よりも、報徳祭のほうがお参りが多いいといわれるくらいでした。だから合楽のために、団体がいつもできると言う事です。沢山の教会は今度は12月は少ない。それはいつも焦点があった。焦点というのがね、とにかく12月一年中の報徳祭だけれどもね、いわゆる一年中の御礼を申し上げたいという、その思いで皆さんが12月の報徳祭をたくさんお参りされた。ね。
今年も、やっぱりお参りされることがございましょうがです、ね、そういうただお参りしてから思い出すようにしてお礼を言うのじゃなくてです、もう、こう思いよったらね、おかげを頂いておることを思いよったら、ね、こういうおかげを受けておることがですね、お礼参拝をさせてもらわなければおられないというところに、私は御本部参拝の値打ちがあると思うんです。
ですからどうでももういうならば、十日間ありますわけですから、ね。ホントにお礼参拝さして頂かねばおられないほどしのものをです、発見するではなくて、自分の心からそう感じれれるお繰り合わせを頂かにゃいけません。そこでその感じる事言われてみると12ヶ月、11ヶ月のことをずうっとこう例えば思うてみるとです、ね、色々おかげを受けておる。いわゆるおかげ、お礼を申し上げる対象になる事は沢山ある。
健康であると言う事でも、ね、様々な例えば一心の真を捧げて願わして頂いたら、あのような奇跡が生まれたという、幹三郎の言わばおかげの事の御礼もある。ね、だけではない一人ひとりがです、御礼を申し上げなければならないその精進のために、御礼のしるしのために、ね、精進さして頂くわけなんです。御本部参拝のために。ね。だからただあの人も参んなさるけん、私も参ろうじゃいけんというわけ。ね。
ですからホントにお礼参拝さして頂かなければおられないというその高まりがです、御本部参拝になってこなければならん。と言うてうんなら御礼の対象は沢山あるけれども、そのおかげを受けておる事は解っとるけれども、それが感動になって湧いてこないんならばです、そこに一つ考えなければならない事がある。今年はもうこんこん今年今月の、いわゆるここの信心の焦点であります所のです、お礼の為に精進させて頂くと言う事は、もういよいよ信心の最高の信心だと。
そうでしょうね、お願いのために一生懸命参ったんじゃなくて、御礼のために毎日毎日一生懸命参ったというんですけん、信心が高度にならないはずがない。高度になるということは、広がるという事でもあるわけです。ですからこれはまぁ、おかげも高くなるだろうし、おかげも広くなる事は勿論の事なの、ね。私共は今度の幹三郎のことで、私ももうそれこそ、自分でもびっくりするほどな大きな信心のおかげを頂いて。
枯れ木に花が咲いたような、言うなら花咲かじいさんのような、言わばおかげを頂いたのであるから、神様がね褒美は、その方の望みに任せると言うて下さるんです、私に。けれどもまぁそう言われてみるとですね、そりゃ何を言う、ちょっと言うてじゃわからんぐらいにある、ね。ですからそういうおかげを受けておるのであるからです、ね、そんお礼のための修行とでも申しま、精進とでも申しましょうか。
お礼のためのお参りと申しましょうか、御礼のための言わば、御本部参拝と言う様な事にならして頂いて、今年を有り難い有り難いで締めくくらして頂いて、新しい年を迎えさして頂こうというわけなんです。ね。そこでですたい、ね、右と、右と願ったら左になった。左と願ったら右となったと言う事の中にもです、神様の神意、神愛があると言う事のおかげをわからして頂いて、そこにお礼が言えれると言う様な信心こそ、私は「真の信心」だと思う。ね。
ここまで申しましたら、私が始め申しました事が解るでしょう。どうでしょう解ったでしょうかね。エビの天婦羅を食べよる。解ったですか。時間がないから答えの方を先に出しましょうね。エビというのはいつも修行と仰るですね。所謂生き締められるということ。ね。生きっとるまま縛られるというね、ね。それを生き締めると言うそうです。ね。例えば、あの伊勢エビなんかが捕れますとね、まずすぐ市場に出さん。
それをピシーっとした箱ん中に、何十匹という伊勢エビをつめて、そしてそのあ出来るだけ荒波のところへ一時ばかり投げ込んどく。綱をつけて。そしてそれが五日なり一週間なりして、そして開けてみて、死んどるとはもうだめなんです。そしてその生きとるだけを、今度は新たに梱包して、いわゆる各方々に送るから、魚屋さんは店頭ででも、あれがごそごそこうやってるんです。あれは生き締められておるからなんです。
私共でも長い間生き締められてきたから、今日こういうおかげを受けてるんです。だからその生き締められると言う事が、実をいうたら有り難いのです。とくに人間関係なんかでもです、生き締められる。もう外の難儀外の事ならもう辛抱するばってん、もう人間関係だけはごめんだという、言う事でけん。そこにね生き締められる有り難さが解ったら、そこに言わば変な人間関係があっても、その事が有り難うなってくる。
神様はあの手この手を使うて、所謂生き締めて下さると言う事が解る。エビというのは、そう言う様な生き締められると言う事、ね。それがねそういうエビがね、天つゆをもって頂くと言う事は、一つ天のつゆと書いてみてご覧なさい。天のつゆ。ね、もう生粋のお恵みと言う事なんです。天つゆと言う事。ね。その天つゆにつけて食べる、もうこれは卑しん坊な私が言うから間違いない。
もう素晴らしい天つゆでい、この天婦羅をね、その天婦羅のエビの天婦羅は、もう最高の贅沢食です。とまたおいしい、そのほどにおいしいものなんです。ね。ですから、今日私が皆さんに聞いて頂きたいのはです、お互いがその生き締められていおるときにです、ね、生き締められておると言う事を知らなきゃいけません。神様の期待があるからこそ、いつまでも生命を生き長らえて下さりたいための事である。
店頭でこうやって活き活きとして動く事が出来れるおかげを頂かして下さる為に、今荒波にでも、窮屈な箱の中にでも、押し込められておるんだと言う事が解らして頂いたら、神様お手間をかけてすいませんと言う事になる。神様なればこそと言う事になる。だから苦しいけれども有り難いのである。その有り難いにです、天つゆ天の恵みと合いよって、初めて素晴らしいおかげの世界があるわけです。
お互いが天つゆだけは頂きたいけれどもね、エビの天婦羅の方をおろそかにする。だからまぁ、仕方のなかその天婦羅を食べにゃんと、唐いもの天婦羅も食べにゃんと。唐いもの天婦羅でもおいしか事は美味しかですね。今日今晩唐いもの天婦羅でしたが美味しかった。けれどもね、やっぱりあれにその、そういうね、そのエビの天婦羅の一片でもついとんならまぁそれこそ最高です。ね。
それを天つゆで、もうソースでどん頂いてっちゃつまらん。やっぱり天つゆで頂かにゃいかん天婦羅だきゃあ。その天つゆ、だから私共の心に「妙賀栄える富喜繁盛」、賀びの妙、どこから湧いてくるか解らんほどしの、賀びの心の状態というものをです、ね、例えば右と願って左になっても有り難いなぁと言う事なんです。ね。ホントに神様にお礼を申し上げなければおられない、所謂滋味豊かな、それこそしっとりとした有り難さです。そういう有り難さに天つゆが、ね、落ちてこないはずがない。
天つゆが与えられない筈がない。そこになんとも言えんおかげの世界があります。そういうおかげの世界に生活さして貰うそういう信心を目指す。今月という今月はそういう大変な、言うなら高度な信心を目指す事をもって、ね、御礼をの為の精進と言う事になって来た。ね、一心の真を捧げての願いというものがこの様にも有り難いんだと、と言う事に矢張り続くのです。そしてその事の御礼と言う事がですたい、ね。
それは私どもの場合でも、第一そのことを願われた皆さんの、場合であったなら、もう今月もうここ十日あまりはね、幹三郎さんがおかげを受けておられると言う事の御礼のときが多いです。ねもう御礼、御礼の精進がのために、一心の真を捧げておられるわけです。それが12月にはいらして頂いて、あの事もお礼を申し上げなければならない。この事も御礼の対象になるというそれをです。
私どもの温かぁい思いやりの心というものが育ってくる。そういう心でキャッチする。ね、それが妙賀である。その妙賀の心賀びの妙、それが富喜繁盛に繋がるというおかげを頂きたいものだと。愈々今年の所謂締めくくりの月をね、その様な信心で進みたいと思う。御本部参拝もどうぞ、あの人が参りござるけんっち私も参ろうかではなくて、一年中の御礼を申し上げさして貰わなければおられない、その精進のしるしが、御本部参拝になって来ると言う事になってこなければならんと思うのでございます。
どうぞ